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エジプト記 中東・北アフリカ

2000/08/18(水) ピラミッド盗頂記 (盗頂マニュアル・実習編)

昔のコンテンツを復刻してますの不備もあるかと思いますので、ご了承ください。

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君はこの雄姿を見なくていいのか!
クフ王のピラミッドから見た、カフラー王のピラミッド


お待たせしました、いよいよピラミッド盗頂記です。
注)このページが提供している情報の内容に関して万全を期しておりますが、その内容を保証するものではありません。
また、
ピラミッド登頂は禁止された行為です。

午前0時をまわっても、私は眠れないどころか、ものすごい緊張感を感じていた。みんな私を見ると、「おやすみ」という代わりに「がんばって」と声をかけてくれた。私は情報ノートの過去の盗頂記を読み、作戦のシナリオを確認をした。小林住人も起きていたので、いろいろ過去の盗頂談(小林住人自身のも含めて)を聞いた。
小林住人によると、過去の盗頂記になかった情報として
1.20回に1回ぐらいしか、ポリスに捕まらず盗頂成功(パーフェクト)はしない。
2.捕まったら細かい身体検査がある。女の子は身体検査されない。
3.基本的にカメラは持っていっても大丈夫。しかし、壊されたケースも過去にあり。
4.賄賂は20leも渡せば絶対ok。あり金全部とられても、1~2leはバス代として返してくれる。
5.白い服のが正規の警察で、黒い服が警備員。黒い方に捕まると賄賂を持ちかけてくる。
6.拘置所拘留の最長記録は10時間。
だそうである。
隊員に女の子がいれば、彼女に貴重品を預かってもらうことも出来るけど、それが出来ない以上、私は捕まり調べられるという前提で作戦を考えた。今回キャノンのixydigitalを持っていくことにしたので、慎重を期して賄賂20leを払うことにした。ただ、これはかなり高い金額で、もっと低くても(5leとか)okである。身体検査は靴底や靴下は当然調べられるので、小林住人のアドバイスに従い、ズボンやシャツの襟の空洞部分に穴をあけて、そこに金を隠した。ズボンの空洞部分に金を隠すのは、南米を旅行する時の知恵だそうである。
午前3時、スルタンホテルから学生が訪ねてきた。彼も、昨日の朝、盗頂に行きたいということで一緒にパーティを組むことにした。寝ていた内田隊員も起こし、ピラミッドからのご来光を夢見るロマンチスト(バカ者ともいう)3人で記念撮影(左から内田隊員・私・スルタンからの学生隊員)をした。そして私は日本から持ってきたリ○ビタンdを飲んだ。
3時半、ホテルを出ると、内田隊員がタクシーを捕まえ交渉を始めている。タクシーは30とか20とか言っていたが、内田隊員は10と怒鳴り、予想通り10leで行くことになった。内田隊員によれば「気合い」だそうである。この時、誰がリーダーかは決めてなかったけど、今思うと、内田隊長なのだろうか。夜のカイロをギザに向けてタクシーは走る。途中、結婚式の集団を見たけど、こんな遅くまで騒いでいるのか。30分ほどで、ピラミッド近くまで来た。モスクが見え、内田隊長が「ストップ」と怒鳴り、気合いでタクシーを止めた。

第?次サファリ・スルタン合同ピラミッド盗頂隊。登頂への意気込みが感じられます。

タクシーを降り、昼間の下見通り、夜の村を駆け抜けた。飼い犬か野犬が鳴いていたが、犬が追いかけて来ることはなかった。ゴルフ場の壁づたいを進み、モスクの前を駆け抜け、ゴミ捨て場のところまで来た。日本みたいに街路灯などないので、月明かりのなか、夜道を来たのである。バクシーシおやじ(盗頂者を捕まえ金を要求してくるこのあたりの住民)はいなかった。満月に照らされたクフ王のピラミッドは僕たちの前に不気味な姿を浮かび上がらせている。
最初の関門は砂の崖である。足がのめり込んで、なかなか登れない。ゼイゼイ言いながらやっと登り切ると、昼間下見した墳墓群の端のところにたどり着いた。月明かりで足下が見えたので、簡単に墳墓群を駆け抜けることが出来た。その瞬間、ポリス詰め所のドアが開いた。学生隊員はかなり目がよくて、そうささやいた。とりあえず、岩陰で休んだ。私にはよく見えなかったが、ドアが開いていて、そのそばに人影が立っている。私などは単なる岩陰も人に見えてしまう。15分くらいじっとポリスを窺い、中腰で、最大の難関である女王のピラミッドの道を横切った。このあたりの200mは身を隠す物がなく、ポリス詰め所から丸見えなのだ。
5時をまわったぐらいか、太陽の船博物館の裏手を抜け、とうとうクフ王のピラミッドの南西角(左下)に着いた。いよいよ盗頂開始。もうここまで来ることでかなり疲れてしまったが、必死で登った。内田隊長はどんどん登っていく。隊長に遅れないように私も続いた。10段ぐらいのところで学生隊員が高いところは苦手と言い出して、登るのを止めてしまった。15段ぐらいのところで、下から「comedown ! (降りろ)」の声が聞こえた。私と隊長は岩に身を伏せた。たぶん下からは見えないと思う。依然として「comedown !」の声が繰り返されていたが、5分ぐらいで聞こえなくなった。学生隊員が投降したのか?彼には悪いけど、彼が囮となって、もしかしたらパーフェクトかという考えが咄嗟に出てきた。
再び登り始めた。服が汚れようが、全身を使って登った。向かいのカフラー王のピラミッドで、だいたいどのくらい登ったかわかりけど、頂上はなかなか見えてこない。下を見れば、マジで怖い。転落すれば死ぬだろう。10分ごとに休憩をとった。上に行くにつれ石は小さくなり、頂上付近は腰ぐらいの大きさになった。40分ほどでとうとう頂上についた。時刻は6時前であった。
クフ王の頂上部分は欠けていて5m四方のスペースになっている。かつての高さはそこから3mぐらい上で、その高さを示す棒が今はたてられている。6時をまわって、そろそろ日の出なのだが、曇っていて見えなかった。互いに記念撮影をし、ピラミッドを降りた。
階段を下りる要領でどんどん降りていく。残り20段くらいになったそのとき、カフラー王のピラミッドから黒服の5・6人わらわらと寄ってきた。警備員だ。黒服なので正規のツーリストポリスではない。私と隊長は素直に投降した。彼らに腕を捕まれ、太陽の船博物館のそばのプレパブ小屋に連行された。そこで身体検査。ポケットや靴と靴下の中まで調べられたが、ズボンの隙間に隠した金は見つからなかった。デジカメは当然見つかった。メモリーカードも見つかったが、これは「バッチ」だというと返してくれた。デジカメからバッテリーを抜いて、写真を消したふりをした。5分程して、一人ずつプレハブの外に呼ばれ金の交渉となった。奴らは30ほしいと言っていたが、20しかないと言うと、結局20le(\600)になった。隊長も20払った様である。ちなみに、後から来る盗頂者には悪いけど、20leというのは払いすぎだ。たぶん10leぐらいでいいと思う。数時間の拘留をいとわなければ、払わなくてもよい。カメラも返してもらえるが、フィルムは替え玉を用意すること。払ってしまえば、態度がからりと変わり、行きに登ってきた崖のところまで、正規のツーリストポリスに見つからないように手引きしてくれた。8時に、タクシーでサファリに戻った(10le)。サファリにもどると、スルタンの隊員の無事に帰って来ていた。隊長と私は盗頂成功を讃え写真をとり、カイロに来た目的を果たした私は床についた。
昼頃、汚れた服の洗濯をし、水の買い出しに行った。それ以外は、ひたすら寝た。
夕方になると、○山師の指揮の元、みんな夕食を作り始めた。私は見ているだけだった。今日のメニューはカツ丼である。イスラム圏なので肉は鶏肉だ。やっぱり、日本人が作った飯はうまい。いつものように○山師のアラビア語講座に続き、「ディナーショー」が始まった(絶唱する○山師)。そして、今夜の宴は当時サファリ2番目の滞在(1年半)を誇っていた吉田氏の送別を兼ねていた。長距離バスの時間が迫り、○山師の『真っ赤なスカーフ(宇宙戦艦ヤマトの歌)』と小林住人の紙吹雪とみんなに見送られ、吉田氏はサファリの階段を下りていった。

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